福澤神社
由緒・由来
桓武天皇延歴七年(788年奈良時代)此の地に創祀し児玉明神と称す。
天歴三年(949年平安時代)京都総本宮の稲荷社祠官より正一位稲荷大明神安鎮の証を得て社号を福澤稲荷明神と改める。
稲荷宮安貞年間(1228年鎌倉時代)平泉の和泉三郎忠衛(藤原秀衛の三男)乳母石塚小萩は主家の女安養院を守り当地に留まり待ち来る藤原家の護持仏十一面観音像(木像で後世小萩観音と称され仙岳院に現存行基作)並びに菅原真実の真筆は当社内に安置されたが後伊達綱宗が城東天満宮を榴ヶ岡に遷宮した際観音像は天神林に堂を建て遷座した。
又福澤稲荷明神の宮守りした小萩の歌に「雨も降れ風の吹くをもいとはねと今宵一夜は露無の里」と後世この地を露無の里といわれている。
慶長年間(1596-1614年江戸時代)片倉景綱(伊達政宗公の藩臣:白石城初代城主)により神殿・拝殿を造営したが惜しくも祝融に羅り明治に至り再興した。
祭神 宇迦之御魂神