仙岳院
由緒・由来
仙岳院は天台宗比叡山延暦寺を本山とし、承応三年(1654年)二代藩主伊達忠宗公が幕府に願って東照宮を勧請し、その別当寺として創建したものである。
御本尊は釈迦三尊(釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩)で併せて東照宮本地仏の薬師如来及び日光、月光両菩薩と薬師十二神将。
いずれも京仏師幸和の作である。
創建当時東照宮の祭祀料として五拾貫文(小田原、荒巻の地、黒川郡穀田が知行地)仙岳院関係に五十貫文、合計百貫文を忠宗公は仙岳院に管理させた。忠宗公など歴代藩主のお墨付きは本堂に現存す。
東照宮遷座式には伊達騒動の立役者原田甲斐守が奉行を勤め、そのときのお布施は合計二万両であった。(仙岳院三世亮栄師の記録)これらのことは仙台藩がいかに幕府に気をつかったかを教えている。
初代最教院僧正晃海大和尚以来歴代平泉中尊寺別当と兼ね、仙台藩一門格筆頭寺院として明治時代に至り神仏分離により東照宮と分る。
慶応四年(明治元年)七月二日より十二月十二日まで北白河宮能久親王(輪王寺宮公現法親王)ご宿泊、その部屋は現存している。
御本尊釈迦三尊や薬師如来のほか仙台札所十一番の十一面観世音菩薩(小萩観音と称し奈良時代行基菩薩作)を泰安し、更に阿弥陀如来、地蔵菩薩、千手観音、聖観音、不動明王、大黒天、弁財天、歓喜天、山王神、そして天台大師、伝教大師、慈恵大師、加えて二代藩主忠宗公(忠宗公のお像は現存しているものは当院のもののみ)等を泰安、朝夕法華経を読踊し国家の安泰と参詣の方々の家内安全仏果増進と福寿増長、福徳円満の為のお祈りをしている。
仙台三十三観音 第十一番札所 小萩観音
札所十一番十一面観世音菩薩は「小萩観音」と呼ばれている。
文治五年(1189年)頼朝の平泉征討のとき藤原秀衛の三男和泉三郎忠衛の女児五歳を家来石塚民部守時、同妻小萩が護って加美郡色麻村清水寺観円(守時弟)のもとに身を寄せて出家する。
元久二年(1205年)に主従共に仙台に移る。女児守時の死後小萩は現在の東照宮近くにお堂を建て女児の護持仏の十一面観世音菩薩(行基作?奈良時代)を念持仏としてまつりその冥福を祈ったという。
東照宮建立の際、天神社と共に別当寺としてつつじが丘にうつされ萩徳山仏生寺と称し、明治維新後廃寺になり、観音さんは民家の所有となった。仙岳院十五世亮湛僧正が遺憾に思い買収して仙岳院にまつったものである。
「あとたれし神もすずしめ法の花 咲くやつつじが丘のみむろに」